
どれだけ時が経っても、忘れられない光景がある。あの時から、世界の見え方が変わってしまった。ほんとうの悲しさを知ってしまった。
どれだけ言葉をかけても、悲しみと孤独の日々は消えない。自分を責めながら暮らす時間。もしもう一度あの日に戻れるなら、もしやり直せるなら、何を伝えられただろう。
今、どこにいるの?
そばにいます。
そう語りかけても、現実は変わらない。それでも、忘れられない思いを「いのり」に変えて、今日も私はこの場に立つ。
~感情の混在と人間の尊厳~
人には、さまざまな感情がある。悲しみと喜び、怒りと安堵、愛しさと憎しみ。ときには、それらが同時にあふれ出すこともある。たとえば、大切な人を失ったとき、胸に広がる喪失感の中に、思い出の温かさが混ざる瞬間がある。泣きながら笑う──それは、人が持つ感情の混在が生み出すものだ。
人の数だけ、死別がある。残された者は、それぞれの方法で喪失と向き合う。ある人は言葉を紡ぎ、ある人は静かに祈りを捧げる。そしてまたある人は、泣き笑いながら、大切な人との記憶を心に刻む。
生成AIには、こうした複雑な感情の混在は理解できないだろう。AIは、合理的な分析や膨大な情報の処理は得意かもしれない。しかし、「好きなのに嫌い」「生きたいのに生きられない」といった、人間特有の矛盾した思いを、その身で体験することはできない。
私たちが日々抱える迷いや葛藤こそ、人間らしさそのものだ。そして、この感情の揺らぎがあるからこそ、私たちは他者と共鳴し、人権を尊重し合う社会を築くことができるのだ。
~泣き笑いの意味~
自死者追悼法要の場で、人々が泣き笑いする姿を、私は何度も見てきた。悲しみが深ければ深いほど、思い出の中の温かさが心にしみる。
「どれだけ時が経っても、忘れられない」
「もう一度あの日に戻れるなら」
そうした思いを抱えながら、参列者は亡き人を偲ぶ。けれども、その場にはただの悲しみだけがあるのではない。
「こんなことがあったよね」
「笑っていた顔を、今も思い出す」
そんな言葉が交わされるとき、涙の中に微笑みが生まれる。悲しみと共に、生きた証を確かめる時間。泣き笑いは、悲しみを浄化し、新たな一歩を踏み出すための過程なのだ。
こうした瞬間に立ち会うたび、私は思う。人の心は、感情の混在の中で成り立っている。そして、その複雑さこそが、人間の尊厳を支えているのではないかと。
~支え合う場を作るということ~
2004年に、自死念慮者と自死遺族の支援活動を始めた。気づけば、20年の時が過ぎていた。
名古屋の東別院をお借りしながら、年4回の分かち合いや自死者追悼法要を続けてきた。多くの方々と出会い、それぞれの喪失、それぞれの生き方を見つめてきた。
2024年には、『絶望のトリセツ』を出版した。この本が、いくつかの学校図書館に収められ、さらには台湾で翻訳される話も進んでいる。自分が書いたものが、遠くの誰かの力になれるかもしれない──そう思うと、言葉の持つ力を改めて感じる。
また、タイ国では、私のドキュメンタリー映画『いのちの深呼吸』の上映と講演、そして臨終体験ワークショップ『旅だち』を行う予定だ。20年以上、一般人だけでなく慶應義塾大学の海外留学生達にも向けて行ってきたものだが、今回はタイの一般市民や仏教僧院、尼僧院でも開催されることになった。
支援活動を続けてきて、ひとつだけ確信したことがある。
それは、「人は、誰かと繋がることで生きていける」ということ。
どれほど科学技術が進化しても、AIが進歩しても、人が抱える孤独や喪失感は消えない。だからこそ、「一人にしない」ことが、人権擁護の根幹にあるのではないか。
~人間らしさを大切にする社会へ~
人権擁護というと、法律や制度の整備が重視されがちだ。しかし、本当に大切なのは、人と人とが互いの存在を尊重し、支え合うことではないだろうか。
矛盾した感情を抱えながら、それでも前に進もうとすること。泣き笑いながら、大切な人との記憶を胸に刻むこと。
これらは、AIには決して理解できない、人間だけの営みだ。
だからこそ、私はこれからも、感情の混在を受け入れながら、人と人とが共に生きる場を作り続けたいと思う。
たとえ、どれだけ時間が経っても。
たとえ、どれだけ遠くにいても。
私たちは、忘れない。
そして、その思いを「いのり」に変えて、また今日を生きる。
根本一徹 2025年1月
「いのちに向き合う宗教者の会」はこちらからどうぞ。 https://inochi.in/
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